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更新2020.06.03

1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[少年編]

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伊達軍曹

わたしの半生などを聞いたところで、読者各位は一銭の得にもならないし、得るものもさほど無いはずだ。

だがこんなわたくしにもいちおう「ライターとしてのプライド」みたいなものはあるため、あまりにも無価値な文章で電脳空間を埋めることにはいささかの抵抗がある。

1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[前編]
▲筆者近影。中古車ジャーナリストとして930型ポルシェ911に試乗中の1枚

それゆえ、今回の文章は「ライトなビジネス書形式」にしたいと思う。

そういった類の書籍はあまり買わないため詳しくはないのだが、わたしが知る限りにおいては、ライトなビジネス書あるいは自己啓発本は、章の終わりごとに「この章のまとめ!」みたいな短文がいちいち付いており、そこを読めば、本文は読まないでも内容をまあまあ理解できる仕組みになっている。

その形式を真似ることで、何の役にも立たない私の半生記が、ごくわずかであっても読者各位のゼニ儲けや幸福のために役立つであろうことを祈りたい。

では、はじめよう。

第1章:貧困


1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[前編]
▲筆者がまだ生まれる前の軍曹母。場所はおそらく山中湖か河口湖で、クルマは観音開きドアのトヨタ クラウン

わたしは1967年11月、東京都杉並区にて生まれた。男ばかりの4人兄弟の末っ子であった。自営業を営んでいた父は、わたしの兄たちの少年期や、わたしが物心ついた頃あたりまでは羽振りが良かったようだ。「自家用車」というものが宇宙船並みにレアだった時代にも、我が家にはトヨタ パブリカがあった(わたしはそれを知らないのだが、写真がある)。

そして、わたしが「西田幼稚園」というエリート養成学園に通っていた頃の自家用車は、トヨタ クラウンであった。クルマに詳しくないので型式名とかは知らないのだが、「クジラ」という通称を持つアレである。

だが、父が営んでいたビジネスはいつしか暗礁に乗り上げたようで、詳しい事情は知らないのだがある日突然、クジラのクラウンは「トヨタ コロナ」という小さなセダンに変わっていた。そして杉並区立西田小学校という、これまた超エリート養成校に入学するにあたり、わたしは新品のランドセルを買ってもらうことができなかった。そのため兄のお古である黒いランドセル(少々キズ有り)を背負って、エリート校の入学式に臨んだ。

わたしはその中古ランドセルに対して特に何の感情も抱いていなかった。だが学友となったエリートたちに教室内でそれを馬鹿にされたことにより、わたしは初めて「ああ、そうか。中古のランドセルを背負う新1年生というのは“みじめ”なのか」と理解した。

理解した途端、涙が出た。Kくんという、暴れん坊に叩かれたから涙が出てきたわけではなかった。

■この章のまとめ!■
貧乏経験には「心がねじくれる」というデメリットがありますが、「他人の痛みがわかるようになる」「下々(しもじも)の人間の考え方やライフスタイルについて身をもって知れる」というメリットも存在します。期せずして貧乏になってしまったときにはあまり悲観せず、そのときの経験と、「それをどう克服したか」をよく記憶しておくようにしましょう!

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第2章:発覚


1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[前編]
▲東京タワーにて、羽振りが良かった頃の軍曹一家(の一部)。写真中央が5歳ぐらいの頃の筆者

わたしは「勉学に熱心な小学生」とは言いがたく、むしろ授業中なども絵ばかり描いていた少年だったが、学業成績は悪くはなかったと記憶している。昔で言う級長、今の言葉で言う学級委員も、たしか1期か2期ぐらいぐらいは務めたはずだ。

そして何よりわたしは「ませて」いた。まだ精液も出ない尋常小学校3年生の頃からオナニーをしていたぐらいだ。

まぁオナニーの話はいいとして、わたしはすべてにおいて早熟だった。そして早熟ゆえに、周囲の(わたしから見れば)幼いガキどもと比べて、何事も飲み込みが早かった。

絵のデッサンがうまくできない者。国語の教科書をスムーズに、情感を込めて朗読できぬ者。今でこそ大のスポーツ音痴として鳴らしているが、幼い頃は運動方面でもそれなりの能力を発揮した。できない者のことがわからず、いつも「こいつらはなぜ、こんな簡単なことができないのだろう?」と不思議に思っていた。

「俺はこいつらとは違う。俺には“才能”ってやつがある」

そのようなフレーズを用いたわけではないが、おおむねそのようなマインドセットで、わたしは生きていた。

そして、才能にあぐらをかいた。

というか、正確には、それは「才能」ですらなかった。

たまたま身体と脳の発育が標準より少々早めに始まっただけのことで、周囲の(当時のわたしから見れば)幼く愚鈍な者どもが、その身体と脳髄とを発達させはじめると、わたしの優位性はどんどん色あせていき、最終的には多くの分野で追い越された。学問しかり、運動しかり。卑近なことで言えば身長も、チビだチビだと馬鹿にしていたK君はいつしか180cmを越え、わたしは175cmでピタリと止まっていた。

「わたしは大した才能も能力もない、愚鈍な、さらに言えば勘違いもはなはだだしかった馬鹿者であり、どこにでもいるオーディナリーな人間でしかない」

20歳前後にしてようやく、そのことに気づいた。
1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[前編]
▲20歳頃の筆者。吉祥寺の居酒屋にて

「そのようなワン・オブ・ゼムでしかない自分は果たして22歳以降、どのような職業人生を歩めばビッグになれるのだろうか?」

そのように考えていた21歳の春であった。

だが、まだまだ「ビッグ」とかいう単語が出てきている時点で、何もわかっていない小僧に過ぎなかった。(次回「青雲編」へ続く)

■この章のまとめ!■
読んでいて恥ずかしくなるぐらいの勘違いっぷりですね! でも多くの少年や若者はたいていこんなモンですので、悲観する必要も恥じる必要もありません。そもそもライターとかにかならない限り、このような恥ずかしい過去を人様に知られることもないのですから。ひたすら「なかったこと」にして、平然と生きましょう!

[画像・ライター/伊達軍曹]

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