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コラム

更新2017.10.11

不思議な因縁のような歴史が?日本車とドイツ車の「因果な関係」を紐解く

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鈴木 修一郎

以前『スバル360とVWビートルの「類似性」を紐解く』というテーマで執筆したことがありますが、歴史的を遡っていくと日本車とドイツ車には不思議な因縁のような歴史が垣間見えてきます。

日本車の創世期にはすでにあのクルマの息がかかっていた事実


日本車の創世記にあたる21世紀初頭、すでに自動車の国産化を目論み果敢に挑んだエンジニアは複数存在します。一番有名なのは吉田信太郎と内山駒之助による「タクリー号」の愛称で知られる吉田式乗用自動車(1907年・明治40年)ですが、その少し後に福岡の矢野倖一という青年が地元の名士に技術力を見込まれ、独力で自身の名の「矢」から「アロー号」と名付けた1000ccの小型自動車の製作を始めます。しかし、エンジンの不調をどうしても解決できず途方に暮れていました。すると当時は第一次世界大戦の最中、捕虜収容所のドイツ軍捕虜の中にベンツのエンジニアが居ると知ると、陸軍に面会を申し込みアロー号のアドバイスを請います。不調の原因はキャブレターで、上海で売られているゼニスのキャブレターを入手すれば解決するというアドバイスの下、さっそく上海に渡りゼニスのキャブレターを入手、さっそくアロー号に取りつけると無事走行できるようになったという話が残っています。20代前半の東洋の青年がまったくの独学で自動車を作ろうとしていた事に、このベンツのエンジニアははたしてどんな事を思ったのでしょうか……。

矢野青年は乗用車生産を目論みますが、この実績からダンプトラックの架装の注文が舞い込み最終的に事業用の特殊車両の架装に専念する事になりますが、現在も架装メーカーとして矢野特殊自動車として活動しています。またアロー号は走行可能な状態で現存しています。



この時点で日本車の創世期には、すでにかの「ベンツ」の息が少なからずかかっていたということになります。

しかし、その後はフォードとシボレーが日本に現地法人も設立し、一時期はこの2社が日本の市場を独占してしまったため、日本独自の自動車産業が本格化するには第二次大戦をまたぐことになるのですが、ドイツでは1933年にナチス政権が「国民車構想」を打ち出し、安価な小型大衆車の生産販売を国策に掲げ、ナチス政権のバックアップの下、フェルディナント・ポルシェ博士が後にフォルクスワーゲンと名付けられる小型車を開発し、購入希望者に対し週5マルクの貯蓄を条件にした5マルク運動を展開します。しかし1938年第二次大戦が勃発、購入希望者が積み立てた資金はすべてドイツ軍の戦争資金に充てられ、フォルクスワーゲンの本格的な量産は第二次大戦以降になります。



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日本の戦後の「国民車構想」


ドイツと同様敗戦国の日本でも終戦の混乱期を終え経済復興の兆しが見えてくると、申し合わせたかのように日本も「国民車構想」を打ち出し、条件を満たしたメーカーには国からのバックアップを用意し、安価な国産大衆車の生産を国策に据えようとします。ところが、日本では既存の自動車メーカーの反応は冷ややかで、一方この政策に関心を持った新規参入メーカーは小型大衆車の大量生産のハードルの高さに屈する事になり、唯一国民車構想の条件を満たすかのように登場したのが、かの「スバル360」となりますが、実際のところスバル360発売の頃には国民車構想も有耶無耶になり、国からはとくになんのバックアップも得られなかったようです。そればかりかスバル自体がそもそもそんなものはアテにもしていなかったともいいます。



しかし、スバル360を皮切りにマツダR360クーペ、スズライトフロンテ、三菱ミニカ、トヨタパブリカ700が自家用車のエントリーモデルの熾烈な販売競争を始め、自家用車の購入を望む一般家庭が自家用車の購入のために貯蓄を始めます。やがてのこの貯蓄が戦後日本の企業への融資に回り、高度経済成長への資金源となります。因果な話で、日本もドイツも国家の運用資金に国民の自家用車の購入資金の貯蓄を充てていたという過去があるのです。

日本車とポルシェの因縁


ご存知の通り1964年5月には鈴鹿サーキットの第二回日本グランプリでスカイラインGTとポルシェ904の因縁の対決があります。当初の下馬評では、スペシャルマシンのスカイラインの圧勝と思われていたのを阻止したのがドイツ車のポルシェでした。



ポルシェによる日本車のモータースポーツの記録阻止はこれだけではありません。1966年にはトヨタ2000GTが78時間スピードトライアルで1万マイル平均206.18km/hで走破、3つの世界新記録と13の国際新記録を樹立するのですが、この翌年には早くもドイツのポルシェ911Rによってこの記録は塗り替えられてしまいます。



また、コンセプトでもこの時期に興味深い事例があります。1967年のフランクフルトモーターショーでポルシェ911は脱着式ルーフの「911タルガ」を発表し、本来「タルガフローリオ」に由来するポルシェのモデル名だったはずのタルガは脱着式ルーフの一般名称として浸透するのですが、実は1965年に発売されたトヨタスポーツ800がすでに911タルガ同様の脱着式ルーフを採用しています。開発スパンが短くなった今日においても新型車の開発は1年や2年で出来る物ではないそうで、後年になって追加されたモデルも実際は当初から研究開発されていたケースもあるというので、ほぼ同時期にトヨタとポルシェのエンジニアが偶然同じアイディアを着想した可能性の方が高いかもしれません。





さらに1970年にはメーカーワークスによるモータースポーツ活動が異様なまでに過熱していた日本では、Cam-AM仕様のプロトタイプレーシングカーのトヨタ7に電子制御インジェクションにターボチャージャーを組み合わせ公称値800馬力、実際には1000馬力を超えていたともいわれる7ターボがお披露目となり、アメリカのCam-AMシリーズ参戦が決定したもののテスト走行の事故により参戦は撤回となったのですが、これもまた1972年のポルシェが917にターボを搭載してCam-AMに実戦投入し、レースが成立しなくなるほどに無敗を誇りますが、もし7ターボが投入されていればアメリカCam-AMにおいて日独のターボ対決という因果な展開になった可能性もありえたかもしれません。



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当時無敗を誇るポルシェに唯一土を付けたクルマ


1970年代後半、ポルシェはツーリングカーレースのGr.5に930をベースにした935ターボを投入、Cam-AM同様無敗を誇り、いくらレギュレーションの変更を繰り返してもレースが成立しないまでの実力を発揮するのですが、実は地方のノンタイトル戦ではありますが唯一ポルシェ935に土を付けたGr.5マシンが存在します。それこそが当時は遥か極東の新興自動車メーカーに過ぎなかったトヨタのシュニッツァー・セリカLBターボです。タイレルP346ホイーラーのF1マシンすら抜き去ったという伝説をもつポルシェ935ターボの前を走った世界で唯一のクルマこそ、他でもない日本のトヨタセリカだったのです。



また、ラリーフィールドでは1981年にアウディがフルタイム4輪駆動モデル「クワトロ」を世界ラリー選手権(WRC)に投入したことで4輪駆動のラリーカーの草分けとして名高いアウディクワトロですが、実は同時期にサファリラリーにスバルもレオーネ4WDで参戦、レオーネがごく初期に参戦したラリーレイドで4輪駆動クラスにエントリーした所、オフィシャルに4輪駆動車といっても信じてもらえず、前後輪をジャッキアップして実際に4輪を駆動させてようやくエントリーが認められたという話もあるそうです。4WDラリーマシンにおいても日本とドイツの技術者がほぼ同時期に同じ着想に至ったという歴史があるのです。

1980年代以降の日本車とドイツ車の関係性


1980年代に入ると日本はオイルショックの混乱も収束し 空前の好況を謳歌します。長年の懸念事項であった排ガス対策にも技術的なメドが付き、再びハイパワー競争に突入します。一方ドイツでは1986年に長年4WDシステムを研究していたポルシェがポルシェ959を発売し日本ではバブル好景気から投機目的もあり、1億円以上で取引された事もありますが、1989年には日本ではポルシェ959に肉薄する性能を持った日産スカイラインGT-R(BNR32型)が発売され、GT-Rもポルシェ959と同様トルクスプリットタイプのフルタイム4WDを採用、パワーこそ自主規制の280馬力に抑えられましたが、実際はそれ以上のスペックを有してたともいわれ、ついに1964年の日本GPのリベンジを果たしたかのような趣さえありました。この年トヨタは初代セルシオ(レクサスLS400)を発売、こちらもついにメルセデスベンツを脅かす存在となり、いつしか日本は追う側から追われる側へと変わります。

1990年代に入ると、今度はメルセデスベンツがスウォッチと設立した合弁企業でシティコミューターというコンセプトで二人乗りのマイクロカーを発売します。全幅を除けば日本の軽自動車の規格に収まるボディサイズと排気量で、日本での発売当初から「全幅さえクリアできれば軽自動車として登録できるのではないか?」と話題になり、事実並行輸入した業者が専用のリアフェンダーとナロータイプのリアタイヤを装着する事で軽自動車登録に成功し「軽自動車登録できる外車(=メルセデスベンツ)」と話題になり、正規輸入モデルとして日本導入が決まると、日本仕様として正式にスマートKという名で軽自動車登録モデルがラインナップされ、ヤナセやシュテルンで買える「ベンツの軽」というある意味エポックメイキングな欧州車となりました。

ところがまたもや同時期にスズキが二人乗りのシティコミューターとして、1999年に二人乗りの軽自動車のPu-3コミューターを参考出品、2003年にスズキツインとして発売に至ります。スマートは同年排気量の拡大で軽自動車登録モデルは消滅しますが、その後もスマートは好調な販売を続けます。しかしツインはわずか2年で生産中止となります。その後の日本の軽自動車の質感の向上を考えると、マイクロカーにプレミアムという価値観をもたらした初代スマートはまさに日本の軽自動車メーカーにとって黒船のような脅威の存在だったのかもしれません。

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今も続く日本車とドイツ車の因果


そして現在、2016年のル・マン24時間レースでは総合優勝確実と目されていたトヨタTS050ハイブリッドがまさかのゴール手前の失速でリタイヤ、2位につけていたポルシェ919ハイブリッドが逆転優勝という真夏のナイトメアような展開、2017年のル・マンはトヨタ、ポルシェともに臨戦態勢での対決になったものの、優勝候補のトヨタTS050、ポルシェ919が全車エンジントラブルに見舞われ、両車満身創痍で辛くもポルシェ919が優勝という前代未聞の展開となりました。(そしてWECからポルシェが今シーズンを最後に撤退するという電撃的なニュースもありました)

多少、こじつけのような部分があるかとは思いますが、日本人にとって一番気になる「ガイシャ」がドイツ車というのは、やはり日本とドイツ、何処か似た者同士にも思える気質がそれぞれの国のクルマにも反映されているからではないでしょうか?

[ライター・カメラ/鈴木修一郎]

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