ライフスタイル
更新2020.02.24
旧車を維持していくことは、壮大なロールプレイングゲームなのかもしれない
ユダ会長
▲現在所有しているMGB Mk1(1965年)
長きに渡って旧車に乗っている人ほど多少のトラブルにはまったく動じない
▲現在所有のMGB Mk1の原型?
旧車を維持するにあたり、「旧いクルマなので壊れそう。お金が掛かりそうだし、ハードルが高いのでは」と思っている人が多いのではないかということだ。
正直な話、現代車に比べれば「壊れる」可能性が高い。しかし、維持する人の経験値によってそのハードルは人それぞれに変わっていくことも事実だ。ちょっとしたところが壊れるたびにローダーを呼び、修理に持っていくのであれば、途方もない維持費が掛かることは言うまでもない。結果として、憧れと現実のギャップに苛まれ、1年も乗れば嫌になって乗るのを諦める人が多いのも事実である。
▲以前乗っていた1968年MGC-GT(日本に数台が存在)
しかし、筆者を含めた仲間内を見回してみると、長く乗っている人ほど多少のトラブルにはまったく動じなくなっている。トラブルに遭遇しても、経験値をあげていくことで、その場で修理するのがあたりまえになっていく。その結果、ちょっとしたトラブルならいつの間にか「故障」とは思わなくなるのだ。これってもしかしたら、不感症に近い感覚ともいえそうだ。
もしかしたら「壊れて当然」というより「壊れたという認識がない」と置き換えた表現の方が適切かもしれない。
身近に仲間がいなくても、インターネットやSNSを駆使すればきっと見つかる
▲現在レストア中のFIAT500(1972年)
今や、SNS等のネットワークを介して、あらゆる人と繋がりを持てる可能性がある時代となった。自分でほんの少しでも維持する努力をしようと思えば、経験豊富な方々がさまざまな知識を惜しみなく教えてくれる。そういう意味では、旧車に乗るには素晴らしい時代へと変化してきていることがお分かりいただけると思う。
クルマが壊れたとき、あるいは維持で困っているとき、今までさまざまな困難を乗り越えてきたベテランの方々の経験を踏まえたうえで自分なりの知識と経験に活かすことも可能なのだ。
▲以前乗っていた1935年モーリス8
仲間内のやり取りなどでも「今、○○○○でクルマが動かなくなった」などと書き込めば、状況を細かに聞きながら、みんなで故障の原因を探るべく推理ゲームがはじまることもある。ひとつひとつ原因になりそうな部分を絞っていき、それさえわかれば「俺、その部品持ってるから、今から持っていくよ!」なんて信じられないできごとも日常茶飯事に見てきているし、筆者自身も助けに行った。もちろん、助けられたことだってある。
そういうネットワークを作っていくことも含め、すべてが「旧車を維持する経験値」につながるのである。
ここでひとつ補足したいことがある。「維持をしたい情熱」が見えるから「維持している情熱を持った方々」が協力を惜しまないということだ。
旧車を維持している人たちは2.5極化されるかもしれない説
▲以前乗っていたネイラーT1700(100台のみ作製された1台)
主に旧車を維持している人たちを細分化すると、2.5(?)極化しているのではないかと著者なりに思っている。
まず1つめは、仕事も順風満帆である程度生活に余裕があり、家族の理解も得て旧車ライフをエンジョイしている方々だ。修理はすべてショップに任せて、乗りたいときに、いつでも完璧な状態に仕上げられているクルマが手元にある。一般的にはこのような方が多いと思われがちだが、旧車乗りではそんな羨ましい方はごく稀である。
2つめは、家族があり「旧車」がそこになければ、何一つ普通の家庭と変わらない生活をしている人たちだ。筆者のまわりの旧車仲間をみても、ごく一般的な仕事をしている人が大半だ。この種の旧車乗りは、できることは自分で手を汚しつつ、使える金額もみずからしっかりと管理しながらなんとか維持をしている。それが「一般的(?)旧車乗り」だと思う。
▲以前乗っていた1935年モーリス8
残りの0.5極は、上記の一般的な旧車乗りのなかでも“たちの悪い”どっぷりな人生を送っている人たちだ。一般的な整備や修理は当然のことながら、エンジンの組み立てはもちろんのこと、板金や溶接まですべて自分で行っている人も存在する。残念なことに(?)著者の周りには、“たちの悪い”人たちが多いような気がする(笑)。
ただ、どの「極」にいる人たちも、長く乗れているのには確実に共通していることがある。
それは、旧車に限らないのかもしれないが【自分のクルマが本当に大好きである】ことに尽きる。まさに「愛車」なのである。
結論:旧車を維持していくことは壮大なロールプレイングゲームなのかもしれない
▲以前、足代わりに使っていたトヨタ コロナ(RT40 1964年)
経験を積み重ね、レベルを果たし、さらなる困難にも果敢に立ち向かっていく。それは決して孤独な戦いではない。仲間(パーティ)がいる。まさに壮大なロールプレイングゲームのようなものなのかもしれない。
余談だが、著者はこれまで、何度か「愛車」を不本意ながら手放さざるを得なかったことがある。そして、そのたびに大の大人の男が本気泣きをしてきた。一般な方々からしたら「何も泣くことはないだろう」と思われるかもしれない。しかし、それほどまでに愛せるクルマが存在することは素晴らしいと考えても良いのではないだろうか、と思えてならない。
「旧車の維持に求められるものとは?」
▲現在レストア中のFIAT500(1972年)
著者にとって「旧車の維持に求められるもの」とはもっと大切な「情熱」である。
つまり、ハードよりもハートが何よりも大切なのだ。
[ライター・撮影/ユダ会長]